補講第9回 「才能とは何でしょう?」
 

続いての質問は、仮想敵国さんです。

才能とは、何でしょうか?


才能とは、情熱であり、追求する姿勢であり、センスである

◆才能には3つある
 才能という言葉を口にするとき、必ずくり返される誤謬というのがあります。
 それは、才能の定義がひとつだと思い込むことです。才能の定義はひとつではありません。最低でも3つはあるでしょう。その事実を無視して十把一絡げに才能を論じるのは、議論としてあまりにも暴論すぎます。
 まず、才能という定義は複数あることを理解してください。

◆情熱としての才能
 才能の1つ目の定義は、「情熱としての才能」です。 
「才能とは、情熱を持続させる能力のこと」
 このように宮崎駿は指摘していますが、これはどの分野・ジャンルにかかわらず通底することでしょう。語学を極めるのであれスポーツで昇りつめるのであれ、情熱は必要です。大成するためには、これはと思い込んだ対象に対して情熱を持ち続けることが必要です。その意味では、あることに対して情熱を持ち続けられること、すなわち情熱の持続力は成功の条件であり、またひとつの才能であると言ってもよいでしょう。

◆追求としての才能
 もう1つは、「追求としての才能」です。哲学者の浅田彰は、村上龍との対談でこんなことを言っています。
浅田 批評家にならざるを得ない人って、そういうところがあるじゃない? 早くわかった気になっちゃって、早くあきらめちゃう。ところが、わかったような気もするんだけど、まだ何かあるんじゃないか、どうしてもあきらめきれないから、もうちょっと頑張ってみよう、と、そういう欲望をやっぱり才能と呼ぶんだと思うよ》
 このように、上を目指そう、もう少し先へ進んでみよう、もう少し踏ん張ってみようとする粘り、執着的な追求、追求する姿勢もまた、ひとつの才能です。

◆センスとしての才能
 そして、最後の1つが、「センスとしての才能」です。一言で言えば、センスということになるでしょう。3つの定義のなかではきわめて先天性の強いものです。
 たとえばスポーツの場合、ある程度のレベルまでは情熱と追求によってたどりつけます。しかし、そこから上となると、壁ができてしまう。この壁を乗り越えられるか、乗り越えられないか。つまり、その道の超トップレベルへ突き抜けられるかどうか。それに関わるのが、この「センスとしての才能」なのです。
 言葉を扱う物書きの場合、言葉に対する音感、すなわち、言葉のリズムを扱うセンスというのがあります。このセンスというものだけは、人に教えることができない。いい音感、いいリズムの具体例をあげることはできるけれど、こうすればいいリズムになる、こうすればいい音感になるということを法則性でもって示すことはできません。「これ、いい文章でしょ?」と言うことはできても、いい文章だと感じさせることはできないのです。感じるかどうかは、本人のセンスなのです。
 いい音感、いいリズムを示されて、それに納得して再現するのは、ただその人の感性、センスです。その感性・センスが決定的に欠落していると、何をどう書こうともだめです。
 ただ、このセンスは、今現在ないからといって、即、「才能がない」とは言い切れないところが難しいところです。中堅や底辺を狙うのではなく、頂点を目指すには絶対ほしい才能ですが……。

◆才能に対する自問は無意味なり
 でも、才能を考えることよりももっと大切なことがあります。
 それは、自分が目指した目的に集中すること。自分の過去を振り返っても、「自分に才能があるんやろか?」なんて考えていた時には、ろくに努力と呼べることもしていないし、才能も発現していないものです。才能に対して考えなくなった時、むしろ才能が発現している。
 「自分に才能はあるんだろうか?」と自問して才能が顕れるのならば何万回でも自問すればいいでしょうが、そういうことはない。物書きになりたいと思うのならば、とにかく書いて読んで、人の意見をもらう。それをくり返すことです。そうして自分の才能に対して自問しなくなった時、自分の才能に突き当たっているでしょう。
 アマチュア時代というのは、自己に対する不安と闘いの時期です。どうかすると自己イメージというものに拘泥してしまう。つまり、自分に才能はあるのだろうか、とか自分は芽が出るんだろうか、とか、そういう漠然とした不安を考えてしまう。でも、そういう不安の重力を引きちぎってこそ、才能というのにはぶち当たれるのです。自問や不安に逃げず、もっと自分の未来の姿に対してぶちあたってください。

 

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